現代宗教の救い(癒し)の構造
-インターネットに見る既存宗教の限界-

深水顕真(広島大学大学院)

 本発表では、ある寺院ウェブサイトの利用者であるI氏へのインタビューから議論をはじめた。
 まず、一個人であるI氏が、どのように宗教的にインターネットを利用しているかを捉えた。そこでは、夫の死という精神的不安を解消するためのインターネットの利用や、精神的な不安に対する宗教的直接の解答ではなく、それを包み込む環境としての掲示板やチャットを求めているI氏の姿を見ることができる。
 I氏の所属する浄土真宗本願寺派には現在122件のウェブサイトが存在している。多くが、法話や行事案内を一方的に行っているのみである。また、掲示板がほとんどないために、一個人の問題に、小回りのきく「包み込む」環境ができず、I氏の求めるものは提供し得ないものがほとんどである。

また、I氏の言葉にもあるように、寺院での宗教行事は、一方的かつ儀礼的なものとなっており、いざというときの個々のニーズにあったものを提供できていない。またその他にも、年に2回ほど所属寺院から僧侶が勤行に訪れるが、儀礼的であり、立ち入った相談などはできなかったと、I氏は述べている。

 こうした既成仏教側の現状に対して、I氏が取り上げた「自分探しの仏教入門」サイトの内容を見ると、個々の問いかけに対して宗教者は一元的に解決策を提示してはいないことがわかる。一般からの投稿を含め、そうした個々の不安を「包み込む」環境が構築されていることがわかる。

 以上の点をまとめると次のようなことがわかる。まず、既成の仏教の機能が、信者(利用者・受け手)のニーズにまったく対応しきれていない点である。I氏の事例にも見えるように、「いま、そこ」の悩みに対して、まったく対応できず、説教すらも単なる儀礼となってしまい、救いの効用を失っている。

 一方でインターネットの掲示版コミュニケーションは、「いま、そこ」の悩みに対して、有効に対応している。決して即効的な解決策が示されるのではないが、「包み込まれる」その感覚が、救いを形成している。しかし、管理者の存在しない一般の掲示板では、攻撃的な発言もあり、期待される効用が常時得られるとは限らない。

 それに対して、「自分探し・・」に見られる、僧侶が管理することによって展開する対話型のウェブサイトは一つの可能性を示しているのではないか。多様なテーマの設定から、対話の進め方まで、自由度は保ちながら、一定の秩序を持った展開を示している。「包み込まれる」感覚の中に生れる新たな宗教的救いのあり方として興味深い。

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